もし、その露を搾取する存在がいたとしたら。
私には友人がいたが、何時の間にか疎遠になっていた。
そんな中で恋人だけが救いだったが、彼とも別れる事になった。
お前は無自覚に人を疲れさせるんだ、と言っていた。
その言葉に妙に納得をした。だから、友人も家族も私の側を嫌がるのか。
目の前には奈落があった。その下で轟々と渓谷を流れる水の音がぼんやりと聞こえる。
飛び込めば、私は消える。
それが無性に魅力的な事のように感じられて、虚空に私は踏み出した。
――ぴちょん。雫が、一滴。
目が覚めた時、暗い感じの夢を見たという印象だけ、残っていた。
どんな夢だったか、漠然としか思い出せない。落ちていった様な気がする。
結構、リアルな設定や想いがあった様な気がするのに、もう、全部逃げてしまっていた。
それでも何とはなしに思考を巡らせていると、関係の無い事を思い出した。
いや、思い出したという程じゃない。一瞬、過去の出来事がイメージとして明滅しただけだ。
すぐそこまで出かかって、消えてしまった。
もう一度考えようとして、目覚し時計の音に遮られた。
鳴る寸前にいつも目覚めてしまうので無意味なのだが、セットしていないと安心できないのだから意味はやはりあるのだろう。
そうして、私の心は現実に引き戻されて行く。
仕事をして、恋愛をして、結婚をして、出産をして。一年が過ぎ、十年が過ぎ。何だか時はすぐに過ぎて行ってしまう。
じんわりと、ほんの少しずつ、表面に露が浮いて行く。
息子が結婚をし、家を出て行くと、時が過ぎるのが早い事を更に強く感じた。
一人の大人の男となった息子を見上げながら、私は、小さな手を引いて歩く感覚も、産んだ直後に感じた感情も、覚えていた。
何時の間に息子が大人になっていたのか分からない程、時間の流れは早かった。
何だか、寂しい。
同時に、無事ここまで来たという達成感の様な物も感じた。
幸せな人生だった。
これで終わりでもあるまいに、そんな事を思った。
露が溜まり、葉は少し重くなった。
目覚しの音に促される様に、ゆったりと目が覚めて行く。
長い夢を見ていた気がするのだが、起きてしまうともう、薄れてしまってほとんど思い出せない。
男の人を見ていた。漠然とそんな場面だけが印象に残っている。いや、男の子だった気もする。良く分からない。
結構、リアルな設定や思いがあった様な気がするのに、もう、全部逃げてしまっていた。
色々な事があった気がするのに、簡単に消え失せてしまった。
今の私には何も無い。何かをしなければならないとは思うのだが、したい事もなく、その気力も無く、その状態から抜け出す術を知らない。どうすればいいのか考える事すら、時に酷くおっくうになる。
唯、部屋に閉じこもり、無為な日を過している私には、夢の中の変化や思いが魅力的に感じたというのに、こうもあっさりと消えてしまうのか。
何もする事もなく、思考だけをしている。
あの男は誰なんだろうか、と考えてみた。そこだけが印象に残るという事は、無意識的に何かを感じているからなんじゃないだろうか。
しかし、どんな顔をしていたかすら、もう思い出せない事に気づいた。
――無自覚に人を疲れさ
ふと、頭に言葉の断片が過った。誰が、いつ、言っていたんだっけ。
しばらく過去の記憶を探っていたが、思い出せはしなかった。
そしてまた夢の事に思いを馳せる。夢や空想という距離感が心地良く、気がつくといつもそうしてばかりいる。
過去や夢を見てばかり。
一度の眠りで人は何度も夢を見ている。しかし、記憶しているのは目覚める直前に見た夢だけである。
深い眠りと浅い眠りを交互に繰り返し、浅い眠りの時に夢を見る。そして、深い眠りの前の夢は記憶していない。
眠りは擬似的な死だと言う人がいる。
過去は遠くて、断片だった。
途切れ途切れに印象に残る出来事、言葉、顔。時々、何故そんな事を覚えているのかと自身を疑う様な、些細な記憶もある。
思い返す程に、一度過去になってしまえば距離が生まれる事を思い知る。
何だかそれは夢に似ていた。
"過去と夢は同程度の明瞭さで私の中にある。"
現在が常に過去になり続け、過去は記憶という曖昧な物に変換されて行くのなら、今、私は存在していると言えるのか。
消えて行く……そんな錯覚が過る。
――分かんないのか、お前は無自覚に人を疲れさせるんだ。
不意に混ざり込む様に思い出した。その言葉を言った男の顔は絶対に思い出す事ができない。
過去だと思ったそれが夢の中の言葉だったと知り、私は愕然とした。
露の重みに、葉は仰け反る。
乱暴に叩き起こされて、朦朧とする中、目覚し時計を見ると、もうとっくにセットした時刻を過ぎている。
夢の内容なんて、気にしている余裕も無い。一瞬にして目が覚めて、慌てて身支度をする。今度遅刻したら仕事を首になってしまう。それに、この家に居て家族と顔を合わせる時間を少しでも減らしたかった。
私の稼いだ金を酒代にする親、人質の様な弟と妹、暴力、ここから抜け出す為に必要なのは大金だ。
そして、協力者、平たく言えば恋人。こっちは既に、とても素的な人がいてくれている。
金の方も、もうすぐだった。彼と共同で貯めているお金は結構な額になって来ていた。
仕事、仕事、と集中する一日。それでも、瞬間的に心の空隙の様な時間がある。
気にしていなかったはずの夢の事が頭を過った。夢では、私は引きこもりで、考え事ばかりして過している。
私にはそんな余裕が無い。あれは私の願望なのかもしれないと思った。
自分の体を、自身ではないかのように思い込ませる。そうし切れていないのに、できていると自分を誤魔化してどうにか仕事を終える。
私は、ボロボロだ。そう思いながら明け方に近い夜中、ようやく床につく。
また、夢を見るのか、とふと思う。もしかしたら、それだけが今の私の休息なのかもしれない。
そう言えば、こんな夢を見たな、と思い出した。
"世界は一枚の葉である。"
待ちに待った給料日、いつもの様に、親に掠め取られた残りの金を口座に振り込む。彼と私の二人の口座。
明細を見て、一瞬にして凍りついた。
今までに貯めた金が全部下ろされていた。
絶望は絶頂に達した。今までに持ちこたえていた何かが遂に駄目になった。
どうやってそこに行ったのかはよく覚えていない。
目の前には奈落があった。その下で轟々と渓谷を流れる水の音がぼんやりと聞こえる。
飛び込めば、私は消える。
それが無性に魅力的な事のように感じられて、虚空に私は踏み出した。
重みに耐えられなくなった葉は、くず折れる。
――ぴちょん。雫が、一滴。グラスに落ちる。
そう言えば、こんな夢を見たな。
世界は一枚の葉だという事を知っていて、私はその葉を見ている。
葉は心で、世界は心が見ているだけの物で、実在しないと私は知っている。
心は希望や絶望という露を浮かべ、やがて雫として落として行く。
唯、それは誰かの喉を潤す為だけに存在させられている。
「喉が渇いたな、そろそろ溜まってるかな?」
露を落として軽くなった葉は、また露を浮かべながら少しずつ重くなっていく。
それは本当に夢だったか?
そして、これは本当に夢ではないのか?
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