60℃
町外れの寂れた駐車場に、廃車同然の自動車があった。
夏の日の夕刻。
野球部の練習を終えた僕は、帰りに廃車の駐車場に立ち寄るのが常だった。この駐車場を横切れば、普通に道を歩くよりも、家まで十五分は短縮できるからだ。
あの廃車は何年もそこに放置されたままだった。白いワンボックスカー。パンクしたタイヤ、赤錆た車体、割れた窓ガラス。駐車場の先にあった建物が解体され、ただの更地になった今でも、留まり続ける廃棄自動車。
ふと、僕は立ち止まった。
夕焼けの赤さが、影をどこまでも長くしている。
僕は泣き声を聞いたのだ。
それは赤ちゃんの泣き声だった。
あの廃車の中から。僕は最初、猫の鳴き声だと思い、でも本当に捨て子とかなら大変なので、車の中を覗いてみることにした。
シートには誰もいない。
泣き声は、もっと後ろから聞こえていた。バックゲートに手を掛けて、鍵が掛かっていなかったので、開けてみる。大きくなった声が近付いていることを教えてくれた。
夕焼けが作る影の暗さで良く分からない。
僕は右手を伸ばした。
何か、柔らかいものに触れる。
「あ!」
その瞬間、僕は強い力によって、廃車の中に引きずり込まれていった。
……気が付くと、僕は見知らぬ女に抱かれていた。
「すぐに戻りますからね」
と、その女は言った。化粧の濃い顔と、黄色に染めた髪、息はタバコの臭いがする。
そして何よりもその巨大な身体!
僕は有無を言わさず座席に寝かされた。女はというとバックミラーで化粧の具合を確かめて、さっさと車から出ていった。
僕は自動車の中に一人取り残されてしまう。
意味が分からず両手を伸ばし、その見慣れない小さな指に驚いた。僕が寝かされた座席は、どうやらチャイルドシートのようだ。ベルトに固定されて首しか動かせないけれど……
ガラスに映る僕の姿は、紛れもなく赤ちゃんだった。
何だこれは?!
呂律が回らないので「あうあうあう」としか声が出せない。
僕は駐車場のワンボックスカーに飲み込まれて、赤ちゃんに姿を変えていた。理由も分からないし、有り得る話じゃない。しかし、僕の身体は何度確認しても赤ちゃんそのものだった。芋虫みたいな腕と指をまじまじと見詰める。足をばたつかせてみた。小さいのにちゃんと五本ある指が可愛らしくて、ついつい微笑んでしまう。
いや、そんな場合じゃない。
泣き声を耳にしたときの夕焼けは、透き通る青空になっていた。車内の時計は午前十時、自動車もボロボロの廃車ではない。場所は、あの駐車場のままだった。ただ一つ、更地だった場所に立派なビルが建っていること以外は。
看板には、
『dog days』
と書かれていた。垂れ幕には「夏の海祭り」とか「出玉感謝祭」などの文句が躍っていて、ここがパチンコ屋だと一目で分かる。僕は昔、あの駐車場にパチンコ屋があったことを思い出した。もう何年も前のことなので、記憶も薄れていたけれど、あの店の派手なネオンには見覚えがあった。
つまり、僕は過去に戻り、この赤ちゃんに魂が乗り移ったのだ。
赤ちゃんになった僕、あの女は母親なのだろうか。パチンコ屋の開店時間に合わせてくるような女が、「すぐに戻る」わけもない。
僕はチャイルドシートに重い頭を預け、退屈な時間を過ごそうとした。でも、窓ガラスを透過して輝く光の眩しさに、自分が恐ろしい状況にいるということに気付かされた。
クーラーの空気が、真夏の太陽によって蒸発していく。
額と手の甲に、じわりと汗が浮かび上がった。
まだ涼しさは感じるけれども、日差しがもたらす熱は驚くほどだ。今はまだ午前十時、これから気温はどんどん上昇する。あの女は鍵を抜いて車から出た。このワンボックスカーは、エンジンが掛からないとクーラーが作動しないのに。
『乳児置き去り、熱中症で死亡』
というニュースを聞いたことがある。真昼の太陽に熱せられると、車内の温度は簡単に六十度を超えてしまうという。六十度の世界では、何もしなければ三時間で人は死ぬ。抵抗力のない赤ちゃんなら、なおのことだった。
冷気が瞬く間に溶けていく。
為す術もなく僕は温度の急上昇を感じていた。
噎せ返るほどの熱が重くのし掛かり、肺を圧迫する。太陽は強く照り輝いていた。まだ十五分も経っていないというのに、暑さが車内を満たしている……
僕はパニックになった。
はやく、はやくここから逃げないと!
チャイルドシートから出ようとした。でも、留め金は赤ちゃんの手が届かないところにあって、ベルトを外すことができない。
止めどなく汗が流れ落ちて、目に入る。
もう温度は四十度を超えていた。
体力と水分が失われていく。
助けてくれ!
僕はただ一つ漂う太陽に向かって叫んだ。
人影のない駐車場、窓ガラスは声を封じ込める。
息を吐くと、それだけで温度が一度上昇するようだ。服が濡れる。あまりの暑さに視野が狭く、視界は白さを帯びてきた。呼吸が短く、早くなってきている。黒革のシートが熱を宿し、指先で触れると、まるでフライパンだった。
こんなところで死にたくない。
強引に手足を曲げて、ベルトを外そうとする。
熱い、熱い、熱い!! 助けて! 誰か助けて!
目の奥が重く、指が痺れている。
汗まみれになりながら、僕はようやくチャイルドシートから抜け出た。転がるように灼けたシートを這い、ドアに近付く。太陽に圧迫されて、頭を棒で叩かれるような痛み、咽はカラカラで、熱気を吸い込むと気管が腐ってしまいそうだ。
僕はガリガリ爪を立てて、ロックを上げようとした。
でも、だめだった。
「たす……けて」
意識が朦朧として、僕は仰向けに倒れた。
そのまま転がって、後ろの座席に落ちる。嘔吐して、胃液と母乳が服を汚した。咽の渇きと頭痛、そして感じるのは、熱に晒された身体の重さだけになった。
温度は上がり続け、太陽が翳ることもない。
僕は静かに焼かれていった。
ガラスに映る顔は真紫に変わっている。助けて……たすけて……タス、ケテ……、僕は呟いた。目を動かすと、何かの弾みで落ちたのだろうか、おしゃぶりがすぐそこに転がっていた。せめて咽の渇きを癒そうと、おしゃぶりに手を伸ばす。
あ、ああ、も、もう……
……もう、手が震えて、目が見えない。
瞼を閉じても日の光は白く輝いていた。意識がどんどん薄れていく。
そして、ふと、全てが楽になる瞬間が訪れた。
頭の痛みが鈍くなり、底のない暗闇に沈む感覚。これで、この暑さと熱さから逃れることができるかもしれない。
ドロドロとしたものに飲み込まれていく。
その間際、僕はあの女の叫び声を聞いた気がした。
……
……うう、あ、こ、ここは?
気が付くと、僕は駐車場の廃車の中で倒れていた。
もう日は沈んでいる。僕は赤ちゃんになって、真夏の太陽の下、この自動車の中で干涸らびたはずだった。僕は叫び声を上げて、廃車から転がり降りる。あれが夢か幻だったとしても、日光に炙られる感覚は、まだ肌の下に残っていたからだ。
右手に握りしめていた、おしゃぶりを見詰める。
廃車の中に引きずり込まれる瞬間、触れたのはこれだったのか。
もうそんな時期だから、弔ってほしかったのかもしれない。
次の日、僕は線香と花を持って駐車場を訪れた。
しかし、廃車はもう撤去された後だった。
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