宵待草
気が付いたときは、公園のベンチにぽつんと座っていた。自分がどこの誰だかまるで分からない状態だった。
思い出そうとすればするほど、こめかみを万力で締め付けられているような頭痛に襲われて、何一つ思い出す事が出来なかった。全ての感覚が、まるでプールの底にいるようにぼやけていた。
住み込みで働きだしたパチンコ屋の仕事にやっと慣れた頃、床の玉を集めていたときに、ひとりのサラリーマンに声をかけられた。
その男は、私に良く似ている人物を知っているというのだった。
体中がざわっとして鳥肌が立った。
迷いに迷った挙句のある日、男から渡された“笹井陵”という名前と大まかな住所が書かれた紙をたよりに、電車をいくつか乗り換えて閑静な住宅街に遣って来た。
本当の自分を知りたいという欲求よりも、何かに強く引かれている気がして仕方がなかった。
目的の家も見つけることが出来ずそろそろ戻ろうかと思ったときに、頬にぽつりと滴が落ちたかと思うと、後は関を切ったような土砂降りになった。
古めかしい門柱に取り付けられた庇の下に急遽飛び込み、弱まりそうもない雨脚をぼんやり眺めていた。
ふと背後の空気が動いたかと思ったと同時に
「酷い夕立ですわね」
という澄んだ声が響き、いつの間にそこにいたのか、長い髪を首の後ろで結わいている女が楚々と立っていた。化粧気のない卵型の顔はつややかで透き通るように白い。目を細めて微笑み掛けてくる表情は清潔感に溢れていた。
「すいません。勝手に雨宿りさせて貰っています」
と照れながら答えると、その女は憂いを含んだ瞳でじっと私を見つめ
「縁側で涼んでおります義母が、そこでは濡れますから是非中に御入り下さいとの事ですので、宜しければ雨があがるまで中で冷たい物でも御召し上がり下さいまし」
と言った。
「私はここで結構ですので…… 」
と少々困惑気味で答えると、生け垣の向うから土鈴のちりりんという音が湿気を含んだ風に乗って聞こえてきた。
「かまわないんですよ、どうぞ御入りになって、さあっ」
どうしてあのとき、強引さも不自然さも感じず、誘われるままに家の中に入ろうと思ったのかわからない。
気が付くと私は玄関の土間に立って、その女が差し出した手拭いで服の滴を拭き取っていた。
下駄箱の上には、竹籠に黄色い花が品良く生けられていた。
かすかにこめかみが疼いた。
その花に気を留めた私に気が付いた女は
「今の時期、庭に沢山咲くのです。本当の名前は待宵草というのですが、竹下夢二の歌『待てど暮らせど来ぬひとを宵待草のやるせなさ』では、やはり宵待草の方がしっくり来ますわよね」
といって寂しそうに微笑んだ。
濡れて妖艶に光る唇に、ぞくっとするような色香を感じた自分を直ぐに恥じた。
女が出してくれた藍染めのスリッパをはいて、良く磨かれて黒光する廊下に足を一歩踏み込んだ途端、私は深い鍾乳洞に入っていくような錯覚に陥った。
数奇屋造りの古いその家は、どことなく懐かしい匂いがそこかしこから漂っている感じがしていた。
女が、中へどうぞ、と促した部屋は八畳くらいの居間になっており、奥正面には広い縁側があって、幅の広い簾がかけられた窓が全て開け放たれていた。
緑に霞む庭に降りしきる雨によって、さながら自分達が滝の裏側にいるかのように、全ての喧騒を遮断した空間がそこに作り出されていた。
縁側の板間に置かれた藤椅子に座っていた老婆が、ほんの数秒視線を私の顔先で止めてから、思い直したようににっこりと微笑み
「突然の雨で大変でしたね。笙子さん、何か冷たいものでも出しておあげなさいな」
と言った。その女が笙子という名前だという事をそこで始めて知った。
目の前で弱々しく椅子に腰掛けている老婆は、白髪を短く切り揃え、ベージュ色のワンピースから出た手足は木切れのように細い。顔も青白く健康そうとは言えないまでも、首に付けた鼈甲のネックレスなどから品の良さを感じさせていた。
「お言葉に甘えて上がらせて頂きました」
と私はようやく探し当てた言葉を口に出した。
「どうぞ気を御楽になさって下さい。私達二人だけの住いですので遠慮は要りませんよ…… 自分の家のようになさって下さいな」
私は図々しく上がり込んでしまったことを躊躇するどころか、どこか落ち着きを取り戻している自分に少なからず驚いていた。
笙子が音もなく入ってきて、丸盆の上に載せていた切り子グラスを私の前のテーブルに置いた。深い緑色をしたグリーンティが入っていた。
笙子のどうぞ、という声が雨の音に吸い込まれそうなくらい、静かで滑らかな時の流れが辺りを包んでいた。
彼女達は私の身の上について、根堀葉堀聴く事はなかった。
たわいもない話であるのに何故か、懐かしくて心地よい人肌の温もりと互いへの労わりで心が満たされる想いでいた。
いつの間にか雨も止んでいて、どこかでカナカナ蝉が鳴き出していた。
実際にはどの位そこにいたのが、時の流れの感覚が失われていた。
なのに、時間がないという焦りがどこかにあった。早くしなければという気持ちに押されるように、いとまを告げた。
玄関先まで出て来たふたりに礼を述べた後、まるで楽しかった宴が終るときのような名残惜しさを感じた。
さようなら、という千切れて消え入りそうなふたりの声が背中を撫でていた。
その声を両足に纏わり付かせながら、蒸し暑さがぶり返した道をとぼとぼ歩いているとき、いきなり飛び出して来たオートバイに跳ね飛ばされた。ほんの一瞬の出来事だった。
道に投げ出され、鈍い音が脳味噌の奥に響いた。
強烈な頭痛が和らいだ瞬間、今度は記憶の洪水が襲ってきた。まるでタイムマシンにでも乗って圧縮された時空の中に押し込まれたかのように、過去の記憶がコマ送りのように蘇っては飛んで行った。
瞬時に思い出した母親と妻の顔が、あの老婆と笙子の顔とに重なった。
私は弾かれたように、今来た道を痛みが走る足を引きずりながら必死で駆け戻った。誰かが後ろで叫んでいる声が聞こえたが、他の事にかまけている場合ではなかった。
慌てて戻ったその家の玄関前で、私は何かが違うと咄嗟に感じた。
つい先程雨宿りをしていた庇の下には、大きな蜘蛛の巣が張っていた。
玄関への飛び石の周りは雑草がはびこり、長い事手入れがされていない様子に変っていた。
玄関脇に取り付けられているポストからは、色褪せたダイレクトメールやチラシが溢れていた。
玄関の引き戸には鍵が掛かっていた。
ふと足元に落ちている一通の手紙の宛名を見ると“笹”という文字が見えていた。
それを見た途端、私は扉に体当たりをしていた。
玄関の土間にガラスや木の破片が散らばるのと入れ違いに、中で膨張していた強烈な腐敗臭がのしかかってきた。
薄っすら積もっていた白い埃を蹴散らしながら廊下を走り、居間の襖を開けた。
雨戸を締め切った暗い室内に薄っすらと湿った光が射し、縁側との境にある欄間から人型のようなものがぶら下がっているのが目に飛び込んできた。
居間の中央には、敷かれた布団の上に黒い人形らしきものが横たわっていた。
ぶんぶんと羽音をさせながら、無数の蝿がその周りを飛び回っていた。
呆然として両膝を付いた瞬間、たかっていた蝿がわっと飛び上がり、布団の上の黒い塊の首あたりに鼈甲のネックレスがあるのが見えた。
そのふたつの亡骸は、私を待ち焦がれて死んで行き、屍となってようやく私を迎える事が出来た人達、私が最も大切に愛しんだ家族であった。
私はここで何の諍いも憎しみ持たず、庭に咲く花をめでながら静かにこの人達と暮らしていたのだった。
母と笙子のころころと幸せそうに笑う声が聞こえてくるようだった。
恐いという感情はなかった。
私はただただ悲しくて、迷子になって途方に暮れた子供のように大声をあげて泣き崩れた。
〔 了 〕
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